デジタル&アナログ

「一枚板看板」はそれ自体も、そしてその制作工程もすこぶるアナログ的な雰囲気があります。山から切り出した木を、できる限りその状態を残したまま40mmほどにスライスして、その表面に文字を彫って墨を入れ完成させる。

看板の始まりである平安時代の頃からその制作方法はほとんど変わっていなのではと思うほどです。それだけ長くその制作方法が変わらず続いたのは、やはりそれだけの魅力があるからです。(と私は思っている)

その魅力の第一は、素材である一枚板そのもの、自然が創り出す唯一無二の造形・質感・色合い・木目模様などは人間が作り出したアートなどは全然敵わないほどすばらしい。もちろんすべての無垢材が素晴らしい訳ではなく、樹種や個体によって、これは・・・と思うものがあるのも事実です。

 

それから、もう一つ言えることは、自然が創造したものは、その場面や環境を選ばない・・・、別の言い方をすると、ロゴの吟味さえすれば、無垢の一枚板看板はいろんな場面にすんなりと溶け込む、そして、それなりの存在感も発揮する。

それに、研磨や仕上げ塗装などによって無垢材の良さを引き出すことを心がけながら制作作業をやっていると、人間の感性を超える素晴らしいものができる・・・と実感する経験が多くあるのですが、ちょっと大袈裟に聞こえますか?

 

人間は本来アナログ的な生き物で、曖昧さを伴った感覚的発想と、自然の創造美に対する愛着がその根底にずっと存在しているのではと思っています。

生活の利便性や仕事の効率性などから、デジタル的なモノや発想が私たちの日常に取り入れられるようになってきましたが、それは産業革命以降の近年に入ってのことでしょう。

 

何やら話がややこしくなってきましたので、木の看板の話に戻します。

木の看板の制作工程で大型の自動彫り機やカッティングシートの導入などの効率的な制作手法も採り入れることも可能ですが、職人の手作業によるアナログ的な制作手法にこだわっています。

なぜかと言うと、一枚板看板の場合、その方が良いものができること、そしてもう一つ、その方が仕事として興味が尽きないことが主な理由です。

 

だからと言って、一枚板看板の制作工程で、デジタル的な手法が全くないかというとそうでもないのです。実はデジタル的なものの代表である、パソコンとそのソフトの「イラストレータ」を使わなければ、多分この仕事は成り立ちません。

看板のロゴ及び一枚板上でのレイアウトを検討・決定するに欠かせない手段としてパソコンとそのソフトは重要な役目を果たします。予め、看板素材画像とロゴをイラストレータに取り込んで、看板上のロゴの大きさ・レイアウト・色などをシュミレーションするのです。また、筆文字書体のフォントの活用や、ロゴの加工などにもイラストレータは活躍します。

 

ロゴのレイアウトが決定すると、イラストレータ上で原寸大の看板に拡大し、ロゴのみ印刷します。印刷用紙はA4ですので、部分的に分けて印刷し、それを貼りつけて原寸大のロゴを完成させ、実際の看板上にイラストレータでのロゴレイアウトを再現させるのです。

その後からは非常にアナログな手法ですが、カーボン紙を使って、ロゴの輪郭を写し取り、彫りや塗りなどの手作業で看板を仕上げていきます。

 

それから、デジタルなものとしてのパソコンやネットは、情報の伝達手段としても重要で、看板制作のご注文も90%以上はこのHPを通してです。

私にとっては、アナログ的な看板制作技術・経験と同じようにデジタル的なパソコン活用は不可欠なものになっています。

全国には素晴らしい一枚板看板を作る有能な職人さんがたくさんいらっしゃるのではと思われます。しかし昔堅気の職人さんはそもそもパソコンなどのデジタル機器などには関心を示さないのが普通です。私の身近にもそのような職人さんがいます。

「根本はその人の経験と技能、そして感性などのアナログの部分、その上で、手段としてのデジタルを上手に活用する」と言うのが、大切・・・。

が、この常識的な結論は落とし所、深度など、現実的にはそれほど単純ではないとも言えます。

 

■備考1

今回の話は(も)、支離滅裂ですね。自分なりに書きたいことがあって、だいぶ以前から書き始めていたのですが、なかなかまとまらず、結局こんな内容になってしまいました。

独りよがりの内容で恥ずかしいのですが、取り敢えずそのままアップします。

そのうちに少しずつ書き直そうと思っていますので、ご勘弁ください。

 

■備考2

「アナログ」の本来の意味は、時計などのように連続した量を針の連続した動きで表示すること、それに対して「デジタル」は連続量をとびとびの数値として表すことを指します。

しかし、「デジタル」は「ハイテク、コンピュータ的発想」などとして、一方「アナログ」は「ローテク、人間の感覚的なもの」として、使われることも多いようです。ここでは後者の意味で使っています。