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流木の話 2
■ 「椰子の実」と柳田國男 =流木のロマン= ■
日本は四方を海に囲まれ、その海岸線の総延長は3万6千km(地球の9/10周に相当)にも及び、ロシア連邦、オーストラリアに次いで世界で3番目に長い。日本は紛れもなく海洋大国なのです。
黒潮を初めとする海流とモンスーンは、その海岸にさまざまな漂着物を運んできました。その昔、漂着物は「寄物」、そして、流木は「寄木」と呼ばれ、沿岸住民には燃料や生活道具、それに家さえも建てることができた貴重な生活資材となっていたのです。
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日本近海海流図 (「漂着物事典」より)
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『日本から遙か遠い南の島で、海に投げ出された流木が黒潮の波にもまれながら長い旅路の果てに、日本のとある海岸にたどる着いた。』というのは空想の世界ではないのです。
今回はそれを証明するような逸話を紹介します。
「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ・・・」
で始まる「椰子の実」の歌を知っている人も多いと思います。(若い人は知らないかな?)
詩は島崎藤村が作ったのですが、元ネタを提供したのが民俗学の巨人「柳田國男」だということを知っている人はあまりいないでしょう。そして、この柳田國男こそが、「流木」というものを学術的に捉えた最初の日本人なのです。
明治31年、柳田が大学2年生の夏、愛知県渥美半島の突端にある伊良湖崎に滞在したときの逸話が、晩年の名著「海上の道」で次のように記述されています。
「・・・椰子の実の流れ寄ってきたのを三度まで見たことがある。(中略)遥かな波路を越えて、まだ新しい姿でこんな浜辺まで、渡ってきていることが私には大きな驚きであった。この話を東京に還って来て、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。」
この話を聞いた藤村は、「君、その話を僕に呉れ給へよ、誰にも云はず呉れ給へ」と言ったそうです。こうやってできた「椰子の実」の詩に、大中寅二が曲をつけ、国民歌謡として広まったのは、昭和11年のことでした。
以下にその詩を転載します。
「椰子の実」
名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ
故郷の岸を 離れて
汝(なれ)はそも 波に幾月
旧(もと)の木は 生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる
われもまた 渚を枕
孤身(ひとりみ)の 浮寝の旅ぞ
実をとりて 胸にあつれば
新なり 流離の憂
海の日の 沈むを見れば
激(たぎ)り落つ 異郷の涙
思いやる 八重の汐々(しおじお)
いずれの日にか 国に帰らん
有史以来、森から送り出された流木が海岸に辿り着き、その豊かな恵みを享受してきた時代が長く続きました。近年、産業革命により生活様式が一変し、自然の恩恵や脅威を生活の中で実感する機会が少なくなり、自然に対する畏敬の念も失われつつあります。
安全性と利便性という美名のもとに、海岸線の多くに護岸工事が施され、人間の側のエゴとも思える理由で、川にはダムが建設され続けています。
この辺りで、ちょっと立ち止まって、日々の生活の中で自然と上手に付き合うこと(共存)を考え始めた方が良いのではと、思ったりします。
参考文献:漂着事典 石井忠 著 海鳥社
柳田國男全集T 柳田國男 著 ちくま文庫
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